昭和51年06月17日 朝の御理解
御理解 第68節
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」
この御理解68節の内容にあるところの信心を身に付けさせて頂くと言う事が、金光大神の信心、お道の信奉者の信心のいうなら、信心させて頂く者の姿、また信心させて頂く家庭の姿、まぁこの68節をいうならばマスターするといいますか、この68節を十分に自分の内に、又は自分自身に頂きとめたとき初めて、金光様の御信心はありがたいものだなと、それこそ喜び満ちる生活ができるのであり、日に日に新たに生まれつつ、それこそ立ち行く世界が顕現されてきて。
生活の全面にお取次ぎを頂いて日々の御礼を申しつつという生活が出来るのです。ここの所がね、ここんところが曲がりなりにも基礎が出来て、それから先が限りないおかげに繋がって行くのです。所が中々できません。雨が降るから風が吹くからえらいと思う、でそこで挫折をする。勿論それは天候の上の雨風だけではありません。家庭に起きてくる雨風も、それをいかにして信心で受けて行くかと言う所に焦点をおいての、生き様というかね、そういう生き様というものが段々本当なものになって来る。
だからやはり、3年5年の信心ではやはり迷いやすい。信心しておってもどうしてと言う様な事もあるけれども、そこをその辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと言われるのですから、そこを受けていく修行として頂いていく。いかにも出来た様な、また出来ておると思うておっても、まぁここのところへ、「いかに有り難そうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神に嘘を言うも同然じゃ。」というならば、神様へ嘘をいうも同然じゃと言う様な、お互い生活をしておる。
信心生活とは言わば似ても似つかない生活をしておる。金光様の信者としてあるまじき事じゃないかと言う様な生活をしておる。まぁそう言う事が多いのですけれども、それが段々一つ一つおかげを頂いてまいりまして、お道の信心をさせて頂くならば、教えにもとずく生き方をさせて頂くならば、こうあらなければならないこう見らなければいけない、こういう風に頂くのが金光様の御信者の頂き方だ、日頃教えを頂く者の頂き方だというのがやはり続いて、私はもう身に徳を受ける修行と言う事になると思います。
祈願詞のところどころをこう読ませて頂く。とにかく喜び満ちる生活が先ずは出来る様にならなきゃなりません。日に日に新たにもう日々、もう日々お礼を申させて頂けれる日々じゃなければいけません。そういう意味で最近私は最近本当に実感する事ですけれども、もう5年10年20年と日参が続いておられる方達ちゃ、皆んなと言うてよいほどもう毎日があり難い、お礼の体験のお礼、ただ今日もおかげを頂きまして有り難うございましたと言った様なものではなくて。
もう昨日1日の、いわゆるお礼体験をのお届けを、なさっておられる事に気がつかせて頂いておるんですけれども、素晴らしいですなあぁ、とにかく10年20年が続いていったら、もうお願いするてんなんてんと言う事は、もう本当に少なくなるですね。もうお礼申し上げる事が一杯になるんです。それが前の日の、いわゆる信仰体験なんです。それが喜び満つる生活をさせて頂いておる、日に日に新たに新たなおかげが生まれて来るからです、生き生きと。
勿論また今日1日もと言う様にです、生活の全面に御取次ぎを頂いて、日々御礼申しつつです、そういう例えば理想的なお道の信奉者の信者さんが、合楽では沢山出来ていかれておると言う事が、本当に有り難いと思うです。だからそういう信心が、なら個のものではないいわゆる個人一人のものでない、一家をあげてそう言う生き方が出来ると言う事が神の願いなんです。それが自分の周辺に、親戚にねまたは自分の周辺に広がって行くおかげ。われら道の輩はと言う事になるのです。
私共はそういうおかげを人に伝えていてくおかげ。私は昨日原さんのところの、恒例の宅祭でありましたが、もう本当にここ30年あまり沢山宅祭も奉仕させて頂きまして、もうそれこそ盛大な御祭も沢山奉仕させて頂きましたけれども、昨日ほど有り難いお祭りを仕えたのは初めてでした。これはもう本当にそうでした。もちろん原さん一家の真心を結集して、盛大な御祭でございました。参拝者も一杯でした。だからそれだけではなくて、その御祭が仕えられるまでの、原さん一家の信心がです。
本当に合楽にもこういう信者、こういう信心一家が出来ておめでたいと神様が言うて下さるような御祭でございました。もうこれは私昨日もその事申しましたんですけれども、どんな素晴らしい信心をしている人が合楽に沢山あっても、原さん一家くらいに、いうならば昨日の時点でですよ、人はどこにもありません。けれどもまぁそれがね、そのうまぁ曲がりなりにも神様のお心に、例えて言うなら今日の68節を本当にマスターして、初めて仕えられる御祭だと言う事であります。
この68節を本当にこの通りに行じて、この通りのことが日々できておって、こういうおかげがいただけるようになったと言う事が、有り難しという謝恩祭であると言うところにです、私は神様のお喜びというですか、神様のそういう信心をしてくれよ、そういう信心をして幸福になってくれよと。お前のところはなかなかよい信心するけれども、そこんところがまだおかしいじゃないか、ここがいっちょかげとるぞと、言う様なものばっかりですよ、実際は。どういう何んと言うてもです。
雨が降るから風が吹くからえらいと思いましょうけれども、そのえらいと思う事をいかにして、それを信心で頂いていくかと言う事の精進を、何十年間続けられたと言う事です。それは様々な人間関係といい、経済の問題といい、または病気の問題といいです、第一大体原さんのお宅は昌一郎さんが、無い命を神様から頂いてからが、本格的な信心になられたんだし、以来いうならば一家のものが。
私共生涯お道の信心を怠るような事は致しませんと言う様な、神様のお誓いを立てられてからの何十年間です。だからそういう信心をさせて頂きながらもです、普通でいうならどうしてこんな事が起こるであろうか、どうしてと言う事もあるけれども、そのどうしてと言う事を、いかにして信心で受けるかと言う事に焦点を置かれて、その何事にも信心にすっとこの頃なれていけれるような家族中の信心状態というものがです。
私は昨日、お祭りの時御神前で一番初めに御心眼に頂いたのは、『臼に、もうとにかくまぁあのう普通でいうならば、もう倍くらいのお餅をですね、もうとにかくつきあげたらもう臼一杯になっとる。その餅がもうそれこそ雪の肌というんですかね、もう見事につきあげられとる。もうその臼に一杯のお餅がつきあげられとると。ならこれからお鏡さんを作ろうか、小餅にしようか、それから先はどげんでもされるという、つきあげたところ』を頂いた。私は感動した。
臼と言う事は、いわゆる嫁後の良子さんの事であろう。杵というのは昌一郎さんの事であろう。まぁいうならばこの人達夫婦の信心では、いつも無理なというかちっと重荷過くらいの臼に少し入れ過くらいのたくさんのものをです、いうならばちっとは背伸びをしなければできない位な色んな問題なら問題をです、そこでさぁお父さんこれはどんな風に頂いたら信心ですか。日頃頂いている教えをどういう風に、この問題をいかしていったら本当ですかと、まあ相談しよるかしよらんかは知らんけれども。
そういう頂き方で一つ一つを信心で頂いておると言う事だと私は思いました。最近昌一郎さんところの問題というか、事柄というものが確かにそんな感じです。少こうしは無理だ。けれどもその無理なところをです、信心が疎かになるところですけれども、そこを一生懸命に努めさせて頂いて、日頃の教えを生き生きと生かそうと精進しながら、毎日をいうならば過ごしておられて、言葉でいうならば信心致しておって有り難い事じゃあるのと、これが普通なら支離滅裂と言った様な事に、成り兼ねない様な問題でも。
これを綺麗に信心でまとめて自分達の心の中に受け止めていけれる、そういう心持がいっぱいできとる。私は餅と言う事は、いうならば昌一郎さん夫婦の心持ちの事だと思うた。勿論その信心のその基礎であるというか、もとをとられたのは原さんのお父さん、お母さんであり、お父さんは亡くなられましたから、いうならば原のお婆ちゃんの信心だと言う事になります。ですからねあのうここら辺の所をね、頂けたり頂けなかったりと言うたらもう、ここの御理解を分かっとらんと言う事になるんですよ。
だからんなら家内がです、これはそればってん日頃から頂いている信心を、ここにこういう風に頂かねばいかんですよと、そげな事があるもんかともう主人がいうたら、もうこの御理解を頂いた事にならんのです。例えば夫婦がそういう信心ができるのに、まぁやっとかっとではあるけれども、それをいかにしてこれを信心でうけようかという受け方をして、もうおばちゃんの場合なんかは、これをもう少し超越してますからね。もういうならば、この頃からの御理解をを引用するとですね。
美登里会の方達の御理解にです、とにかく美登里会の方達の場合なんかは、もうお道でいうところの信心、お道でいうところの、生神を目指すとこういうが、その生神とはいかんけれども、もう神の世界に一歩足を踏み入れている方達ばっかりなんです。そりゃ個的に個人で言うてですよ、だからそういう信心が一家中で出来た時がいわば今日の御理解です。なら昌一郎さんや、良子さん達の信心が、もう神様の世界に一歩足を踏み入れとるとは思わんけれども。
その神様へ向こうとるその過程で、この問題をいかにして、信心で頂くかという頂き方で、無理だけれどもそれを何日かたっても、一週間たってでもそれを、これはこう頂くのが本当だと、言う風にすきっと信心で答を出して行っていると言う事なんです。いわゆる生神へ向かっておる。そういう意味で、ならおばちゃんの場合は、もう神の世界に一歩足を踏み入れとる信心だと。息子達もそれに負けずと、後からついていく生き方をしているのですから。
このままいきさえすりゃ、必ず一家中が生神を目指していくと言う事になるのです。お祭りやら奉仕させて頂きましたら、そりゃみんなこりゃ本当に、一年に一遍のお礼の御祭をするのですからめでたいことですから、本当におめでとうございます、おめでとうございますとお互い、挨拶を交わしますけれども、昨日ほど私は本当に真から、原さん一家におめでとうございますと言うた事は、本当に初めてでした。いや神様がおめでとうというて下さっている思いでした。
皆さんどうでもですね、折角信心させて頂くのですから、雨が降るから風が吹くからというそこんところをです、その辛抱こそ身に徳を受ける修行なんです。家庭の中にもこれが雨じゃろうか、風じゃろうかというとこもあります。どんより曇った日もありゃ晴れ晴れと晴れた日もありましょう。けれども、そこんところをです喜び満つる生活を目指しての信心。本当にこう言う様な問題が起こった時に、普通信心がなかったら、家の中が真っ暗になるような事でしょうけれども。
ここを喜び満ちる生活を、しかも日に日にそういう問題を、こういう心で受けられると言う事が有り難しと、日々にお礼申させて頂けると言う事は、もう金光様の信者はここんところで答を出していくので、実際がそれで行くと言う事なんです。だからこの68節を本当に自分のものにする。自分一家が、こういう生き方になってしまうと言う事が、金光様の信奉者は、そういう日々を過ごさせて頂いておるから、年に一回の謝恩祭が本当に謝恩祭として、その御祭だけのものではない。
お祭り前のものが、ならこういう68節の頂き方。お祭りが済んで下がりましたら、親子でお礼に出てみえました時に、本当に「昌一郎さん、原さんおめでとうございます」。という本当に心からのおめでとうございますが言えて、感動しましたがです、「それが本当にありがたい事ですね、親先生。今日千恵子さんの話を聞かせて頂いたら」というて久富先生が言われるんですよ。それはどう言う事かというと、お饅頭のお供えをしたいと思うて、饅頭屋に饅頭を買いにいかれた。
そしたら「今日は何事」と、「今日はこんな風で宅祭。」「そんならこれをもらってくれんの」と言うてから、そのうおこわばやらっしゃった。それがねどう間違えられたかいつもの倍作らっしゃった。だからおこわが芹箱いっぱい、だからみんなに出すだけあった。いつも頂くように、本当に赤飯炊いて祝うような心で信心せよと仰るでしょうが。私はそれを頂いてまた感動しました。なるほど私が今言う心、私がそのただそのう私の見方が間違ってなかった、私の頂き方が間違ってなかった。
神様が赤飯炊いて祝って下さってるという感じでしょうが。裏付けがあるのです。どうぞひとつですね、そりゃもうほんに悔やまにゃおられん、ぶっとせなおられん、腹かかなおられんと言う事はありますよ。けどもそれはあってもいいけれども、それをならいかに信心で頂くかと言う事を、一生懸命日頃の信心に照り合わせてです、そしていやこりゃここはこげな事じゃあいすまん、という頂き方を出していくという、全てをその生き方でいくと言う事ですから、金光様の信心とは。
そういう精進が信心なのですから、お道の信心なのですから。それを折角一家をあげて信心をしとるなら、一家がそういう信心に足並みがそろうてしまわなきゃいかん。自分がしとる信心なら、それを子供にもいうなら孫にも、周囲の者にも足ろわなければです、私は本当のおかげは受けられんと思うです。そうでしょうが。おかげ頂いた頂いたというても、信心の薄かったりなかったりするものが、そげなおかげの方を傷つける。家内がはぁもうおかげ頂いて有り難いというても、いんにゃなんじゃろうかい。
俺どんが一生懸命働いたけんでくさいと言うて、例えば皆んながもう信心はもう根こそぎに、有り難いものがもうそこにそこで、神様に対する通うものがなくなってしまう訳です。そりゃ家庭ですから、家の中でただ一人の人が一生懸命信心をする、二人のものが信心をする、家族をあげて親戚をあげて、はぁやっぱりあれどんが一生懸命信心しよったからおかげ頂くなと、第一家庭を見てみれと。それこそ家庭に不和のなきがもとというが、もうそりゃ元を頂いておる。
家庭に不和のなきが元と言われるが、本当に家庭が円満。体の丈夫を願え体が元と言われるが、本当にみんなが健康。そしていうならば貧乏がない。私が昨日申しました。この頃十日位前になりますか、あの六万八千円というお知らせを頂いた事がありましたね。六というのは徳ということだと、八というのは広がりに広がっていくというもとだと。ちょうど昨日は六万八千円がとのお祭りのような感じであり、六万八千円がたのお徳が原さんとこに備わったという感じでした。
だからこの信心を落とさずしてです、いよいよ自分達をもっともっと見極めてです、もっともっとすんなりとです、今まで1日掛りよったのが、もう即それをおかげと頂けれるようなです、生き方をいよいよこの信心を落とさずに進めていく限りです、問題がある時にです、問題言うなら難儀が普通でいうなら感じる時です、そういう時にいよいよ自分達をむなしくすると言う事が、その六万八千円というのに又ひとつ0をつけて、自分達が深く分かれば分かる程、小数点がひとつずつ下がって行く訳ですから。
これが来年当りはもうひとつ六万八千円が、六十八万円の原さん一家と言う様なおかげになっていかなければならない。いよいよ自分達をむなしくしていくという生き方からです、次には六百八十万円の原さんの家の格というか、お徳が備わっていかなければならない。もう楽しい事だともう例えどの様な事が起こって来ても、いや起こって来る事を歓迎するごたる気持ちすら、起きて来るのじゃないかと思うです。
ハッとする事やらそれは困ったと言う事やら、それは損になって馬鹿らしかと言う様な事が起こって来るかも知れんです。けれどもそれをです、自分というものを空しゅうした時にです、あん時死んどると思やぁ問題じゃないと言う様な頂き方が出来る時に、○がひとつ増えていくのです。それをなら一回そう言う事になったらから、もうひとつ○が多くなるという意味じゃないですよ。そりゃひとつ○をつけるためには、3年も5年も10年もまたかかるかもしれませんよ。
けれども六万八千円だけならば、何時も六万八千円には不自由しないという、いうなら貧のない世界、貧乏のない世界。ですからその六十八万円の信心に、六十八万円の徳にしていくところの精進には、いよいよ俺達が本気の信心をさせてもろうて、いよいよ自分を空しくする。いよいよいうならば喜びみつる生活が、もっと本格的な本当のものにならなければならない。日に日に新たにその信仰体験が生まれていかなければならない。そういう、いうならばおかげで立ち行く世界が、広がっていかなければならない。
そしてそういうおかげをです、家族をあげて合楽示現活動に参画させて貰う、自分達の頂いているおかげを真実を、そのままに表していかなければならない。日々生活の全面にこれだけは何十年間、原さん方一家の場合は、もう降ろうが照ろうがこれだけは絶対なんです。昌一郎さんが奥さんを貰われてからこの方、奥さんも分かりよるじゃろうかと思うような時代もありましたけれども、やっぱり一生懸命ついてみえられた。もうこの頃では自分が先にたって参られるようになられた。教えが段々血肉になってきた。
こういう時にはこういう見方をする事が、こういう頂き方をする事が本当だと言う様な事が段々分かってきた。「生活の全面に御取次ぎを頂きて、日々の御礼申しつつ」という、言うならばちょっとした雛型の言うならば手本が出来たと言う事です。ならそういう手本が、合楽にこれだけ沢山の信者がおるけれども、そういう家庭があるかというと一軒もないです。いうなら原さん方が本当に始めてという感じです。ただしその信心を落とせばまた別ですよ。だからこの六万八千円という徳をです。
維持していくだけではなくて、これにもう一つ信心を進めていくと言う事は、自分を空しくしていくと言う事です、限りなく。それが六十八万の徳にも六百八十万の徳にもいやいやもっともっと、限りなく生神を目指しての信心。お婆ちゃんが生神を目指していきよるならば、息子たち夫婦もやっぱりまだ生神を目指しての信心。もう一家中が神様を目指しての生き方にならせて頂くのですから、そこに初めて拝み合いの家庭生活が出来るのです。この68節をですね、本当にひとつマスターしなければならない。
もう日々ですねもう失敗しよる人があります。有り難く受けなん事は分かっとるけれども、もうその時にはカッーときとるけん有り難く受けとらんもん。そして人に怪我をさせたり自分も又元にすとっとおかげを落としてしもとる。それこそ雨が降るから風が吹くからえらいと思わずにです、それをいかに有り難く辛抱して受けていくかという、その辛抱がし続けられると言う事なんです。その辛抱も段々おかげを頂いて参りますと、それが楽しい事になって来ると言う事なんです。私は昨日原さん達一家に頼みました。
どうぞ昌一郎さん、この信心を落とさずに前に進んで下さいよと。なるほど先生があげん言うたが、本当に○が一つずつついて行く様なおかげを頂いて下さいよと。もうそれこそ30年ぶりに初めて私がお祭りを仕えておめでとうと心から言えれる、私だけじゃない神様が言うて下さる印がです、いうならばお饅頭屋さんが間違えて沢山のお赤飯を蒸して。そして御祭があると聞いて、ならあんた方にこれを頂いてくれと言われる様な、神様が赤飯たいて祝うてござるようなお祭りを始めて仕えた。
この信心を落とさずにいよいよ信心の言うならば真を貫いていき。「喜びみつる生活の、日に日に新たに生まれつつ、立ち行く世界の広がりゆくは有り難し。われ等道の輩は、生活の前面に御取次ぎを頂きて、日々御礼申しつつ、かしこき天地書附をわが信心の要とし、いかなる時にも金光大神の道貫きて、神の働きそのままにわが生活の真実を」。と言う所をですね、原さん所でも見事に雛形乍ら受け継いで、今のところ全部いうならば及第点をとっておられると言う事なんです。
だからここからです、「丁寧親切、愛をもて語りゆき、われ等信奉者相ともに、人の助かるお役に立たしめ給え」と言う様な、高度な信心になってくる時に、いよいよもっと素晴らしいおかげの世界があると思うのです。今日は私は68節を、昨日の原さん所の宅祭に頂いた、又は感じさせて頂いた事、そして68節の内容と言うのは、原さん一家のような信心を頂いて初めて68節がマスター出来たんだなと言う風に聞いて頂きました。
どうぞ。